この際オリンピックから余計なものを全て取り除いたらどうか

 オリンピック組織委員会の森会長が女性蔑視的な発言をしたとされて、世の中から袋叩きに遭っている。

 事の発端となった発言を読む限り、「女性は競争意識が強い」とか「女性を増やすと発言時間の制限が必要になる(と誰かが言っていた)」など、やや偏見があるなと思われる内容ではあるが、結論としては「今後も女性を登用し続けますよ」という意味のことを言っているわけだし、オリンピック開催の是非の判断が迫られるこのタイミングに会長職を辞任するほどのことでもないような気がする。

 総理大臣をしていた時からそうだったのだが、どうも森さんはマスコミのおもちゃにされやすいようなところがある。発言が問題視されてすぐに謝罪会見を開いたところまでは良かった。ここで「自分の発言の一部に不適切な表現があった」と謝罪していれば、この話はそれで終わりになっていたはずである。それなのに、記者から挑発的な質問を向けられると、「面白おかしくしたいから聞いてんだろ」と気色ばんだり、女性の記者に向かって「声が小さくて聞こえないからマスクを外せ」と言ったりするものだから、火に油を注ぐ結果となってしまった。どちらかというと、女性についてどうのこうの発言したことよりも、この謝罪会見の対応の方がよほど問題であったように思う。ロシアのプーチン大統領のような人物が一目置くほどなのに、自国のメディアや国民からナメられている人というのはなかなか他に類を見ないのではなかろうか。

 そもそも森さんについて、女性に対して差別的だという声が圧倒的に多いが、彼はさすがにまだ社会の一線で活躍(?)しているだけあって、同世代の爺さん婆さんに比べれば、まだそのあたりのセンスは研ぎ澄まされている方だと思う。例えば、うちのお婆ちゃんはちょうど森さんと同じ世代だが、自分も女性であるのにも関わらず、「女は社会で出しゃばるもんじゃない」とか「女が政治で男に敵うわけがない」なんてことを公然と話している。

 総理経験者を田舎の婆さんと比べること自体が失礼な話だが、そもそも戦前生まれの世代と、今の社会を生きている人とは、生まれ育った時代や価値観がまるで異なるのだ。80歳の人の価値観は、80年の歳月をかけてその人の精神に染み付いてしまっているものなので、よほど柔軟な考えの持ち主でなければ、これを矯正することはできないのである。価値観の移り変わりについて行けない意味では確かに「老害」と呼ばれても仕方のない部分はあるが、他方で多様性は尊重されるべきだという流れもある。生まれた時代の違いに由来する価値観の相違も多様性の一つと言えば一つであろう。それなのに、多様性の名のもとに、多様性の一つが叩き潰されるという図式はどうも腑に落ちかねるところがある。

 このように書く一方で、僕はこの「女性蔑視発言」がされる前から、なぜ森さんがオリンピック組織委員会の会長の座に就いているのか不思議でたまらなった。2020年のオリンピックが東京で開催されることが決まったのは2013年と記憶している。この時点で森さんは既に齢70を超えていたわけだが、どうしてオリンピックが開催される日まで元気でいられるか分からないような老人を会長職に据えるのか、その発想が信じられなかった。いくら総理経験者で、世界中の有力者に顔がきくと言っても、高齢者を酷使しすぎだろう、老人虐待じゃないのかとすら思ったくらいである。ところが、色々な話を見聞きすると、どうやら森さんが自ら進んで会長の役を買って出たようなフシが見受けられる。森さんの能力はさておき、彼以上にオリンピックに対して熱い思いを抱いている人間が他にいなかったということなのだろう。

 これも世代論になってしまうが、1964年の東京オリンピックの記憶が残っている世代のオリンピックにかける想いは、それ以降の世代のそれとは比べものにならないほど強いもののように感じられる。1964年を経験した世代にとって、東京オリンピックは、日本が敗戦から復興し、世界有数の先進国にのし上がったサクセスストーリーの象徴なのだろう。前回の東京オリンピック以降、日本はバブル崩壊による「失われた20年」や、東日本大震災、少子高齢化など、様々な苦難に遭遇した。1964年経験組としては、東京でもう一度オリンピックを開催することによって、1964年の明るい希望に満ち溢れた、かつての日本の雰囲気を再現し、諸問題の解消に向けた契機を作り出したかったのではないだろうか。

 一方で、今の日本のコア層である1964年を知らない世代にとって、オリンピックは単なる「世界総合スポーツイベント」に過ぎない。僕個人もこの層に所属しているが、単なるスポーツイベントになぜ巨額の金を突っ込むのか、なぜ「多様性と調和」などというスポーツと関係のないメッセージを込めるのか、などなど、理解に苦しむ点が多々ある。「世代の差」と単純な図式にするのは適切ではないかもしれないが、オリンピックに対して必要以上に熱い思いを抱いている人と、冷めた見方をしている人が存在するのは確かである。

 僕のようにオリンピックに対して冷めた見方をしている人間からすれば、単なる世界総合スポーツイベントに変な付加的な意味合いやメッセージを込めることはせず、オリンピック草創期のように、広場に裸の選手が集まって競う様子に声援を送ることができればそれで十分ではないかと思うのである。

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