Ghost of Tsushimaのエンディングに感じる違和感

 元寇の対馬を舞台にした「Ghost of Tsushima(ゴースト・オブ・ツシマ)」というゲーム作品が映画化されることになったらしい。昨年2020年に発売されたゲームだが、発売直後からネット上で大変面白いと評判になっていたので、普段あまりゲームには縁のない僕ですらも、Youtubeで他の人がプレイしている動画を見てみたところ、確かにさながら一篇の映画を見ているような見事な出来栄えであった。

 既にゲームでこれだけの世界観を演出できたのだから、個人的にこれを改めて映画化するのは蛇足のような気もするが、一方で原作のゲームのエンディングには少し違和感を感じるところもあったので、ここに書き記しておきたい。なお、本記事はゲームのネタバレも多分に含む内容であることを予告しておく。

 「Ghost of Tsushima」は、元寇の時代に対馬を蹂躙せんとするモンゴル軍を相手に敢然と立ち向かう一人の侍を主人公としている。ゲームの序盤、彼は対馬を治める領主の甥として、突如として現れたモンゴル軍との緒戦に臨むことになるが、戦いの前に名乗りを上げるなど形式を重視する日本軍は、日本のしきたりなど頭から無視して、残忍かつ合理的に戦いを進めるモンゴル軍に完膚なきまでに叩きのめされる。圧倒的な負け戦により大怪我を負ったものの、奇跡的に一命を取り留めた主人公は、途中で出会った仲間とともに、モンゴル軍に捕らわれた領主である叔父の救出と、モンゴル軍の撃退に挑戦するというのがこのゲームのストーリーである。

 この作品では、「武士とは何か?」というのが一貫したテーマとなっている。いかにも東洋に憧れる外国人が好みそうな題材だ。主人公はモンゴル軍との緒戦を通じて、武士らしく正々堂々と戦っていては決してモンゴル軍に打ち勝つことはできないことを悟る。そして彼は激しい葛藤を抱えながら、不意討ちや毒殺といった戦法に手を染めながらモンゴル軍に挑んでいくが、そのような戦い方によって勝ちを収めれば収めるほど、主人公は叔父をはじめ、武士をもって自らを任じている人々から、武士の道を踏みはずした「外道」として疎まれる存在へと成り下がっていってしまう。

 信頼した仲間の裏切りや死を乗り越えながら、いくつかの過酷な戦いを経て、主人公は叔父を救出し、一時的にモンゴル軍を対馬から撃退することに成功するが、主人公の武士道に反する戦い方は本土の将軍府にも伝わるところとなってしまい、領主の叔父としても、自らの跡継ぎとまで見込んだ主人公を処断せざるを得なくなってしまう。

 物語のラストでは、叔父に首を刎ねられることを良しとしない主人公は、自身が父や師と仰ぐ叔父に対して、文字通り命をかけた真剣勝負を挑むわけだが、個人的にこのシーンについては少しの違和感を抱かざるを得なかった。というのも、主人公は、武士道に悖る戦い方をするのは、モンゴル軍と戦っている間の一時的なものであるという説明をゲーム中に度々していたと思う。モンゴル軍の再侵略を示唆する表現もなされていたが、モンゴル軍との戦いは一時的とはいえ収まっている状況であるから、主人公も外道を歩む非日常から、武士道の価値観が統べる日常の世界に戻るべきでなないかと思うのである。そうなると、主人公は従容として、叔父によって首を刎ねられる道を選択することになるわけだが、このゲームを貫いている「武士とは何か?」というテーマを、武士道の理不尽さも含めてより際立たせるためには有効な終わり方ではないかと思うのだ。ゲームのストーリーとしてはバッドエンドということになるが、悲劇として終わらせることにより、より完成度の高い作品になったと個人的には思う。

 ここから先は脱線になるが、日本の歴史を見ても、武士道という倫理がどこまで忠実に守られていたのか疑わしいところがある。平家物語に出てくる源義経や、太平記に出てくる楠木正成の戦いぶりなんかが武士道に適っているのかというと、怪しいところである。いずれも奇襲や騙し討ちなんかは当然として、向かってくる敵に対して熱湯や糞尿をぶっかけたりすることを平気で行っていたわけだが、結局は勝てば官軍である。思うに、武士道などというのは、平和な時代のママゴトのようなもので、一度命を懸けた戦いが起きれば、形式やしきたりなんかはまるで無視されてしまうのだろう。むしろ勝つ上では邪魔な存在になることの方が多かったのではないだろうか。そう考えると、「Ghost of Tsushima」の主人公が道を踏み外したことが知れ渡ることになっても、そこまで苛烈なお咎めが下されたのかどうかと疑問に思う部分はある。

 また、僕個人の話になってしまうが、他の人のプレイ動画を見て、この素晴らしいゲームを是非自分でもプレイしてみたいと思わなくもなかったが、僕はそもそもゲームを楽しむ才能に恵まれていないようである。これは反射神経が鈍いとか、手先が不器用である等という技術的な要素に加えて、クリアまでに要する時間が長くなるほど「ゲームなんかに貴重な時間を浪費して良いのだろうか」なとどいう無粋な心配事が頭に浮かんできて、純粋にゲームに没頭することができないというメンタル的な要素も含まれている。かと言ってゲームをしなかった時間が有効活用されるのかというと、決してそういうわけでもない。それならば、決められた時間に思いっきりゲームを楽しんだ方が、明らかに人生の満足度も高くなるのだが、どうも自分には一事が万事、そういうグズグズしているところがあって嫌だなと思う。

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