新型コロナウイルスワクチン接種の予約のために高齢者が徹夜で行列を作っただの、電話回線をパンクさせただのという話が後をたたない。こういう話が出回ると「老い先短い年寄りのくせに生にしがみついて醜い」という反応をする人がいる。
実は僕個人の中にもこうした考えは存在している。ちょっとは勉強してインターネットくらい使えるようになれよとか、徹夜で行列とか年寄りが日本で一番元気じゃねーかという表面的なツッコミ以上に、僕の中のもっと奥底に、「老人が生に執着するのは醜い」という価値観が確かに存在しているのである。
しかし、なぜこのような敵意にも似た感情を老人に対して抱いてしまうのだろうか。自分でもよく分からないところがあるので、酒でも飲みながら考えることにしたい。
まず整理しておきたいのは、この感情は特定の個人に対するものではなく、老人一般に対するものであるということである。僕の祖母は2人とも90歳近くで、まだ健在であるが、もう反抗期もとうに過ぎているので、彼女たちに対して「クソババア!死ね!」とは思わない。家の周りを散歩しているとよく出くわすお爺さんお婆さんに対しても同様である。ひとりひとりの老人に対して個人的な恨みはまったくないが、「老人」という集合体になると途端に怒りを感じるというのも、何か変な話だが、実際そうなのだから仕方がない。
そのうえで、「生にしがみつく老人は醜い」と思っている。これは裏を返せば、僕個人として「老人は死を前にしてもジタバタすべきでない」と考えているということなのだろう。確かに、僕の中には、老人には生き死にだけでなく、あらゆる欲望や執着から解き放たれていて欲しいという願望があるようだ。逆にテレビドラマや政治の世界なんかで、金や女に汚い老人が出てくると虫唾が走る。若者や中年オヤジまでなら、金や女に対する欲望を丸出しにしていてもまだ許せるが、老人になると途端に許せなくなる。
この感情の正体が、既に80年も生きて散々人生を満喫したであろうに、これ以上生を貪ろうとする強欲さに対するものなのか、あるいはこの先まだ何か良いことが起こると思っている無邪気な楽観に対するものなのかは分からない。いずれにせよ、自分は「老人はかくあるべき」という思いが人一倍強いようである。勝手な理想像を押し付けられたうえに、そこからはみ出すと敵意を向けられるとは、老人からしてみたらこれほど迷惑な話はあるまい。
ここまで考えて気がついたが、「あらゆる欲望から解放された老人」という僕の理想像は、世間一般の老人に向けられたものというよりも、自分がなっていたい姿を投影したものなの ではないのだろうか。理想像から逸脱した老人を見ると腹が立つのは、怒りという感情をもって「こういう年寄りになるんじゃないぞ」と僕の精神が鳴らす警鐘であるとも考えられる。
そうであるならば、自分が一番気をつけなければならないことは、実際に自分が爺さんになるやいなや、途端に生に執着しないようにすることである。そしてこの可能性は大いにありうると思っている。
というのも、僕は高校生の頃、「30歳になったら死にたい」などということを本気で考えていたからである。当時の自分から見た30歳の人たちは一体何が面白くて生きているのか自分には分からなかった。故に30歳になったら人生を終わらせようと短絡的に考えていたわけである。ところが、十数年後、自分が実際に30歳になってみると、想像した通り、確かに人生面白いことばかりではないが、かと言って人生が面白くないからと言って死ぬこともない。面白くない人生に耐えられるだけの精神力を身につけられたともいえるのだが、このような30歳の僕の姿を17歳の僕が見たら、さぞかし腹立たしいことだろう。同じことが40歳の僕から見た80歳の僕に対しても言えてしまうわけである。