土方歳三ばかりカッコよく描かれててズルい

 新撰組の「鬼の副長」として知られる土方歳三の半生を描いた「燃えよ剣」が2021年10月に映画化されるらしい。

映画燃えよ剣 公式サイト

 もともとこの映画は2020年度中に公開される予定であったと記憶しているが、新型コロナウイルスやらなんやらで公開が後ろ倒しになったのだろう。主演はV6の岡田准一らしいので、もしかすると前述の「なんやら」の中に、昨今のジャニーズ内でのゴタゴタも含まれているのかもしれない。

 「燃えよ剣」は司馬遼太郎による小説を原作としている。僕も高校生の頃に初めて読んで以来、何度となく読み返した作品である。読むたびに魂が熱くなる名作である。司馬遼太郎の代表作といえる「竜馬がゆく」が坂本竜馬をはじめとした明治維新の勝ち組を描いた作品とすれば、「燃えよ剣」は土方歳三と新撰組という明治維新の負け組を描いた作品である。

 主人公の土方歳三も、日本各地を転戦した末に函館の地で戦死してしまうが、そこに至るまでの戦いに次ぐ戦いの生き様には、男でも惚れ惚れとさせられるものがある。

 新撰組のファンというのはどの世代にも一定数おり、そのせいか、新撰組を題材に扱った創作物は多種多様である。僕自身、その全てを知り尽くしているわけではないが、土方歳三が格好悪く描かれている作品はごく稀であるように思える。どの作品においても、土方は強い信念と冷徹な頭脳を併せ持っており、さらに少し影を感じさせるところが逆に彼の色気になっているようなところがある。

 その一方で、彼の盟友とも言える近藤勇はというと、「燃えよ剣」でもそうであるが、豪傑のように振る舞ってはいるが、大事なところで急に気弱になったり、分をわきまえずに政治に色気を出したり、女性にだらしなかったりして俗物のように描かれることが多いように思える。

 実際に近藤や土方の人間性がどのようなものであったかなどということは、150年以上も時代を隔ててしまった僕たちにはごくわずかな資料から想像することしかできない。しかし、仮に近藤が後世の創作物で言われるような俗物であったとしても、局長は近藤、副長は土方という序列は変わらないのである。幕末の京都で倒幕派の志士たちから恐れられた新撰組のトップに座り続けていたからには、それだけの資質が近藤には備わっていたのだろう。彼が本当に取るに足りない人物であったとしたら、土方も近藤を局長に押し戴くことはしなかっただろう。後世の創作者は、土方を神格化するがあまりに近藤を必要以上に貶めるような表現をするのは控えた方が良いように思う。

 かく言う僕自身も、それこそ初めて「燃えよ剣」を読んだくらいの若い頃は、「土方こそが新撰組の象徴で、近藤なんてお飾りのトップに過ぎない」みたいなことを考えていたこともまた事実である。しかし、自分が歳を取るにつれて、組織には近藤のような役割を担う人間もまた必要であると考えるに至った。

 泣く子も黙る新撰組といえども、蓋を開けてみれば所詮は会津藩なり幕府なりの後ろ盾がなければ、所詮は今でいうところの田舎ヤンキーの集まりである。そうであるならば、スポンサー様の意向を正しく汲んで動けるように、こまめに足を運んで現状を報告し、今後の指示も仰がなければなるまいし、時には偉い人にゴマをするようなこともしなければならなかっただろう。土方のようにクールな媚びない男ばかりでは、いずれスポンサーから見放されてしまうのである。世の中は聖と俗の微妙なバランスで成り立っていて、100%聖でも駄目で、100%俗でも駄目なのだ。

 こんな中小企業の悲哀のようなものを近藤勇に託して表現してくれる映画監督や俳優はいないものだろうかとも思うが、果たしてそんな作品を見たがる人がどれほどいるのかは分からない。

 余談になるが、土方歳三がこうまで絶対正義のように描かれるのは、やはり現在に残っている肖像写真の影響が少なからずあるのではないだろうか。当時の人々からも、役者のような美男だと言われていたようだが、見た目からして二枚目の土方、三枚目の近藤という立ち位置が決まってしまったように思う。これは最近槍玉に挙げられがちなルッキズムであるとも言えなくもない。

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