Amazon Primeで映画「ジョーカー」を観て感じた銃規制と社会保障の重要性

 「この映画は名作!」とか「面白い!」などと言われている作品よりも、「これは問題作!」とか「賛否両論ある」と言われている作品の方につい惹かれてしまう、という人は多いのではないだろうか。

 僕もそんな問題作マニアの一人である。

 2019年に公開され、同年最大の問題作として呼び声の高い「ジョーカー(The Joker)」を先日観る機会を得た。

 公開以来、いつか観よう観ようと思っていたものが、観ないまま年月だけが過ぎ去り、いつの間にかAmazon Primeで観られるようになっていたのである。

 「ジョーカー」という作品は観る人によって賛否の分かれる映画であるという評判であったが、個人的には大変興味深く鑑賞することができた。

 どうやらこの作品の舞台や設定は、アメリカのヒーローであるバットマンを題材としているらしいが、僕のようにそれを知らずに観ても十分楽しめる作品である。むしろ、そうした基礎情報なしに、余計な先入観を持たずに鑑賞した方が却って功を奏したのかもしれない。

 あまりネタバレも良くないので内容について多くを語ることは避けるが、最初から最後まで作品を見終わっても、ストーリーの中で展開される出来事のうち、どこからどこまでが現実に起きたことで、どこからどこまでが主人公の妄想であったのか、いまいち判然としないところがある。

 どうせ妄想なら、自分がコメディ界で大スターになるような明るい夢を見ればいいのに、主人公の妄想はどこまでも暗い。その辺りに自分の才能や可能性を信じきれないジョーカーの悲哀がある。

 作品の中ではこの疑問に対する正解は示されず、敢えて曖昧にしておくことにより、色々な解釈ができるような幅を観る者に与えてくれている。

 一方で、この作品が観る者に伝えんとするメッセージは極めて明確で、それは主人公が物語の最後の方に、あるテレビ番組に出演した時のセリフに集約されている。

 社会からゴミ扱いされて心を病んだ孤独な人間を怒らせるとどうなるか思い知らせてやる。

 この一言によって、観る者は自らの心の中や、普段自分が歯牙にもかけていないような人々の中にジョーカーの卵が潜んでいることに気づくのである。

 アメリカ社会の内側にいるアメリカの人々は気付かないかもしれないが、ジョーカーのような人間が現れないようにするためには、銃規制と社会保障がいかに重要であるかということを考えさせられる。

 主人公のような八方塞がりの人間が、簡単に銃を手に入れられるような社会にしてはいけないのだ。

 主人公は自らの心の支えとなる全てを失って暴挙に及ぶが、拳銃さえなければ、大惨事には至らなかっただろう。せいぜい包丁やナタを振り回すくらいである。

 もちろん、主人公のような人間に銃を与えないというのは問題の根本的な解決にはならない。重要なのは、どのようにして八方塞がりになる人間を減らすことができるかということである。

 作品の中でも、不況によって主人公が住む市の財政状況が厳しくなり、社会保障費がカットされ、主人公が受けていたカウンセリングや処方されていた薬が打ち切られるという場面があった。思えば、あの辺りから主人公の妄想の度合いが酷くなっていったのではなかったか。

 貧困に喘ぐ人々や、一時的に人生に躓いてしまった人々がヤケを起こして、自分や他者に対する衝動的な暴力を振るわないようにすることが社会全体の安定のために必要なのである。

 国や市による公的な社会保障政策に頼らなくても、地縁や血縁の繋がりで互いに支え合えばいいじゃないかという意見もあるかもしれないが、善意は一過性のもので、そうそう長持ちするものではないのである。

 ちょうどジョーカーを見終わった人が「明日からクラスで無視されてるあいつに優しくしてやろう」と決意したところで、それが3日と続かないのと同じように。

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