2022年2月21日の日本経済新聞の記事で「マミーギルト」なるものが紹介されていた。
マミーギルトとは、端的に言うと、働いているお母さんが充分に子供や家族の面倒を見られないことに対して感じる罪悪感のことだそうだ。
特にコロナ禍で休園や休校が相次ぎ、家族が揃って家で過ごす時間が増えているだけに、仕事にかまけて母親としての役割を果たすことができないという罪悪感がより増幅される傾向にあるようだ。
新聞記事の中でもその例として、ベビーサークルに閉じ込めた子供が隣の部屋で泣いているのにオンライン会議を継続せざるを得ず、子供に申し訳ない気分でいっぱいだった、という話が紹介されていた。
子供が預けられる保育園が再開したところで預けられた子供はお母さんが恋しくて泣くんじゃないだろうかとも思うが、少なくとも泣いている顔は見えないし、泣き声も聞こえないので罪悪感は多少軽減されるということだろうか。
また、考えてみればお父さんも同じ状況にあるはずなのに、父親が罪悪感を感じるとか、ダディギルトという用語ができる気配は一向にない。記事の中でも、「米国では『母親は父親に比べ、自分の仕事が家族に与える影響について多くの罪悪感を持つ』といった調査結果もある。」ということが書かれている。
そうした背景のひとつとして、「子育ては母親がすべき」という「50年前の考え方」が今も根強く残っているからだという恵泉女学園大学の学長のコメントが紹介されている。今も根強く残っているのならば、それは50年前の考え方ではなく現代の考え方なのではないだろうかという気もする。マミーギルトに悩む母親たちを、そうした価値観から解放してやるということが解決策のひとつにはなるのかもしれないが、人間の考え方はそう簡単に変わるものでもない。
個人的な経験だが、例えば子供が泣きだした時の反応などを見ても、父親は母親に比べて随分鈍感にできている。母親は泣き声を聞きつけるやいなや、コンマ一秒で子供のところにダッシュしていくのに対して、父親は「あー、なんか泣いてんなあ」と傍観者になってしまいがちである。一般に男性に比べて女性の方が共感力が高いと言われているし、自分の子供が泣いているところを見た時に、母親の方が自分を責める傾向が強いのではないだろうか。
マミーギルトの原因が「子供や家族の面倒が見られないこと」なのであれば、それを解決するためには、その原因を断てばよいのである。すなわちお母さんが働かずに家事や子育てに専念できるようにしたら良いのではないかと思うが、事態はそう単純なものでもないようだ。
現代は収入が増えにくい中、子どもの教育など求める生活水準は上がり、「女性が出産後も正規雇用にとどまり共働きを続けないと、豊かな生活がしづらい」時代だ。
結局のところ、女性の社会進出だの自己実現だの言っているが、お金のために仕方なく働かざるを得ないというのが実際のところなのだろう。その結果、お母さん達が子供のために何もしてやれないなどという罪悪感に苦しまなければならないなんて、豊かな生活が聞いて呆れる。
いずれにせよ、今の時代の母親の多くは、経済的に余裕のある生活を送りたければマミーギルトを覚えつつ働くか、働くのをやめて貧乏な生活に甘んじるかの二択を迫られている。どちらも得ることは不可能なのであれば、それぞれの家庭の事情や価値観に従っていずれかを選ぶしかない。
考えてみれば、共働きの両親なんてものは今に始まった話でもないのだから、かつて両親ともに仕事が忙しかったので親からロクに構ってもらえなかったという人や、貧乏でロクに教育も受けることができなかったが、愛情だけは注いでもらったという人が、その後の人生をどう歩んだかということをSNSなどでどんどん発信して、マミーギルトに悩んでいる母親に参考にしてもらえば良いのである。
おそらく上記いずれの場合も子供の行く末にそこまで大きな差は生じないというのが僕の仮説である。お金には困らなかったけれども親の愛情を感じることができず、グレて犯罪者になりましたという人もいれば、親の愛情には困らなかったけれども大学に進学することができず、良い仕事にありつけませんという人もいるだろう。
結局は子供の持っている資質次第という身も蓋もない結果になってしまうのかもしれないが、そういうことであれば、母親が自らの選択について余計な罪悪感を持ってしまうことは防げるのではないだろうか。